其の名前、其の響き(Side:R)

「…此処、かな」


小さな音を立ててその扉を開く。存外重いモノだな、というのが印象だった。
そんな僕の思考とは別に、キィと鳴いた音は軽く響く。
足を踏み入れると階段が続いていて、どうやら目的の場所はこの先にあるようだった。
一歩、カツン。一歩、カツン。
音や気配を消す必要はない筈だけれど、別に態と騒がせる必要もない。

カツン。カツン。
固い音。どこか寒々として、冷たい響きだ。
己が靴裏がたてる硬質な足音を聴きながら一歩、また一歩と昇る。
ふと足元に視線を落とせば、チョコチョコと着いて来る小さな黒猫の姿がどこか必死に見えて。
猫の身に階段は辛いだろうかと思い、そっとその身体を抱き上げ腕に納めた。

「…どんな所だろう、ゴウト」
『俺は屋根があって雨風が防げればなんでもいいがな』
「そうだね。……どんな、人かな。ゴウト」
『さあな。気になるなら急げば良い』

階段を昇り切った所でゴウトが僕の腕を擦り抜けて着地する。
ひたり、と降り立つその足は、なんの音も鳴らさなかった。
『そこに居るんだ。どんな奴か早く見てみると良い』
そう言ってゴウトは少し進んだ先にある扉の前に立つ。

[鳴海探偵社]

一つ息を吸い込んで、その扉を叩くべく腕をあげる。
その眼前で、扉は勢い良く開かれた。

「やぁやぁいらっしゃい。歓迎するよー。ささ、入って入って」

ニッコリ。そんな効果音が頭に響くような笑顔が現れて。
僅かばかり上の位置にあるその瞳に、背の高い人だな、と思った。
(僕より身長がある人は余り見た事が無い)
ドアを叩けなかった僕の手は半端に止まり、不意打ちの登場に言葉も止まったままだったが、その人は気にするでもなく。
「ん?どうした…って、ああ悪い。俺が目の前に立っちゃ邪魔で入れる訳もねぇか」
そうしてまた笑って、扉は開け放したまま背を向け軽やかに中階段を降りて行く。

「…失礼します」
「はいはーい。失礼しちゃってぇー」
やっと出せた僕の声は、その足取りと同じ位に軽い声で迎えられる。
扉を閉め室内へと続く中階段を降りる僕の靴音は、酷く響く気がした。
カツカツと鳴る固い音。

「ん、そこら辺適当に座って。ちょーっと待っててな?」
中央にある、おそらくは来客用の卓とソファを指差してから、ヒラリと手を振った彼は入り口とは別の扉に吸い込まれて行く。


適当に…と、言われても。
まだ挨拶も済んでいない。
名乗らず、ましてや此処の主より先に腰を落ち着けるのもどうかと思い、所在なげに立ち尽くす。
視界を巡らすと此処はとても雑多で。
それでも統一感の無さが妙に統一感をもたらす様な、不思議に落ち着く部屋だと思った。


「あれあれあれ、どうしたの。ほらまぁ座ってよ」
不意に届いた声に振り向くと、彼は両手で大きな盆を持って笑っていた。
僕の横を通り、卓にカップやらをカチャカチャと並べて行く。
「あの、」
「あーそうだ。ライドウって珈琲は飲んだ事ある?」
「え、あ…いえ、無い。…と、思います」
「そっか。そんじゃ砂糖と牛乳も持って来るわ。座ってな」
軽く肩を押され椅子に促される。
これで座らないで居るのも逆に不義理かと思い、とりあえず腰を降ろすとゴウトも椅子の上、僕の横に寄り添う。
「おぉ?それライドウの猫ちゃん?かぁーわいいねぇー!」
『我はライドウの猫ではない!』
にゃぁん、と声を上げたゴウトに、お前もちょっと待っててなと笑いかけ、彼はまた扉に消えた。

「………」
『我を猫扱いするとは。なんだあの馬鹿男は!ヘラヘラしおって!』
それは、普通の人には只の猫なんだし仕方ない。…とは思うだけにして言わないでおいた。




目の前には黒い液体の注がれたカップ。
何だか不思議な香りがする。
これが珈琲というものなのだろうか?
あちらの皿に乗った黄金色にみえる物体もよく分からない。
ボンヤリと考えていると目の前に銀色の小さな器が二つ置かれた。
「君にはこれねー」
そういってゴウトの前に平たい皿、それはどうやらミルクのようだった。
さて、と。彼は僕の前の椅子に腰を降ろし、カップを手にとって笑う。
「ま、とりあえず飲んで。どうぞー」
「あの、」
「ん。挨拶はそれ飲んでからね?此処まで遠かっただろ。一息ついてからユックリ聞くよ」
ふんわりと優しい彼の声の響き。
此処に来て初めて聴く柔らかい音だ、と思った。


これを飲む…の、か?なんだか泥水みたいなんだけれど。大丈夫なのかな。
カップを手に考えていると彼が笑い、それから一口先に飲み込んだ。
意を決して僕も口に含む。…苦い。
眉間に皺が寄ったのが自分でも分かる。それを見て彼が楽しそうにまた笑う。
「あー砂糖はそれ。牛乳を入れてもいいぞ。自分で調整してみな?」
指差された銀色の器を見る。両方少しづつ入れてみたら少しマシになった。
それでも、美味しいとは思えなかったけれど。


カップを卓に置き、背筋を伸ばし彼に向かい直す。
「もー!そんな堅っ苦しくしないでいいよー疲れちゃうでしょ?」
それより甘味はどう?そういって皿を差出された。
「大学芋も、初めてかな?これは苦く無いから食べてみな」
「大学、芋…ですか?」
「うんそう。おイモさん。ライドウの口にあうかは分かんないけど」
黄金色の液体がかかった芋(らしい)を一つ取り口に運ぶ。
カリっとした硬質な飴とホコリとした芋の食感。
ふんわりとした優しい甘さに、なんだか幸せな気分になる。

「…これは、美味しいですね。とても、好きです」
もう一つ口に運び、視線を上げると驚いたような彼の顔。
「…?」
「あ、いや、うん。…気に入ったみたいで、良かったよ!」
忙しげに数回瞬きをして、少し顔を赤くした彼が笑う。
全部喰っていいからな。遠慮しちゃ駄目よ?
僕に皿を押し付けてくる彼を見ながら頷いた。


咀嚼していた芋を飲み込み、改めて両手を膝に乗せ深く頭を下げる。
「初めまして。十四代目葛葉ライドウ、ヤタガラスからの命を受けて参りました。本日より此処でお世話になります」
「うん、初めましてー。話は聞いてるよ。鳴海探偵社へようこそ、ライドウ」
「若輩者ゆえ御迷惑をおかけするとは思いますが、宜しくお願い致します」
顔を上げて彼の瞳を真直ぐ見つめると、些か照れたような、困ったような笑顔。


嗚呼、この人は、良く笑う。


笑うと口角が上がり、その口元がまるで猫のようだと思う。
嗚呼そういえば。
彼もゴウトの様に、その足音を立てない事にふと気が付いた。

「俺は鳴海。此処の所長をしている」
「鳴海、所長」
「あー、所長じゃなくて鳴海さん、でいいよ。仰々しいのは苦手なんだ」

口角を上げて目を細めて。
まるで、猫の様な。
フンワリとして、優しげな。
柔らかい、笑顔。

「…鳴海、さん」
「ん?なぁにーライドウちゃん」
「十四代目、葛葉ライドウ。 ……橘、慈照、と…申します」
『おい、慈照!』

にゃあん、と。
僕の横からゴウトの声。
僕の前には微笑んだ顔の彼。

「…これは僕の、猫では無く、お目付役のゴウトです」
「おやまぁ。偉い猫ちゃんなんだ?よろしくねーゴウト」
『猫ちゃんなどと呼ばせるな!』
にゃぁん!
「『猫と呼ぶな』とゴウトが言っています、鳴海さん」
「あらー御免ねゴウト?ま、仲良くしよーね!俺、猫大好きなんだよなぁ」
『だから猫扱いするなと言うに!』
怒るゴウトの言葉は聞こえない振りをした。
ふふふっと笑う彼を見詰める。


嗚呼、この人は。
なんて、綺麗に。

笑う。


じっと見る僕の視線に気が付いたのか
彼の人は優しげに細めた瞳のまま静かに口を開いた。


「……よろしくな、『ライドウ』」







此処がライドウちゃんの部屋ね、好きに使っていいから。建物内を案内された後、一室に通された。
布団が一式と小振りな梱が用意されていたので、大して多くは無い私物をしまわせて貰う。
畳に正座し荷物を片付ける僕の膝をゴウトの前足がピシリと叩く。

『慈照』
「…なんでしょうか、ゴウト」
『何故名乗った』
「……」
『答えろ』
「…それは、名乗る。……挨拶じゃないか」
『何故、名乗った』
「……」
『何故『ライドウ』だけでなく、お前は名を名乗ったのか聞いている』
「………なんでだろう…」
『……』
「十四代目葛葉ライドウ。それ以外の僕の名、なんて…、…何故だろう」
『慈照』


嗚呼。だって、彼の人の笑顔が綺麗で。
その声の柔らかい響きがホワリと蘇る。


「あ」
『……』
「分かった、ゴウト」



「僕は名を、呼ばれたかったんだ」



彼に。
彼の声で。
彼の人に。

僕の名を。




『…馬鹿が』

何故「ライドウ」ではない名を名乗ったのか。
呼ばれたいと願ったのか。
それが問いで、呼ばれたかったその思いが答えなのだ。
名を呼ばれたかった、と。
ただそれを答えとして笑う十四代目に

厄介になるな…この馬鹿が。

心の中で舌打ちしつつ、別に我が自覚させてやる必要もあるまいとゴウトは思い。
この馬鹿な子供を置いて布団に丸くなった。