其の名前、其の響き(Side:N)
キィ…と鳴る小さな音が聴こえた。
続いて微かに届く靴音。
カツン。カツン。
急くでもなく、規則正しい間隔の音。
カツン。カツン。
固い音。どこか、張り詰めた響きだと思った。
そこに混ざる小声の呟き。内容までは聞き取れない。
会話するような調子だが、返る声がない。
独り言には大仰な印象はするけれど。
あれかなぁ、やっぱ、緊張しちゃってるのかねぇ?
ふと思い付いた己が思考に顔が綻ぶのを感じ乍ら、それを実行すべく扉へと向かった。
気配を消し、足を忍ばせて一歩。また、一歩。
そうして中階段の先にある扉の前に立つ。
[鳴海探偵社]
扉の向こうで一つ、呼吸音。ふふ。
小さく動いた気配を見計らって、思いきり扉を開いた。
「やぁやぁいらっしゃい。歓迎するよー。ささ、入って入って」
ニッコリ。さぁどうだ驚いただろう。はははっ!かぁーわいいな。固まってない?
些か開かれたその瞳の、思いのほか高い位置に、背が高い子だな、と思った。
(まぁ残念。それでもまだ今は俺の方が高いみたいで安心)
ドアを叩けず半端に止まった手と、少しポカンとした口元が可愛い。
ふふ、成功成功。驚かせたー!
でも声を出さない辺りは流石だなぁ、うん。
偉いね、ライドウちゃんは。
「ん?どうした…って、ああ悪い。俺が目の前に立っちゃ邪魔で入れる訳もねぇか」
企み通りの進行に笑う俺の足取りは軽く、扉は開け放したまま中階段を降りる。
「…失礼します」
後ろから聴こえた声は存外高くて、そしてとても澄んだ音だった。
緊張の為か、余り抑揚は感じられない。
「はいはーい。失礼しちゃってぇー」
態と軽い調子で声を返す俺の後ろを、カツカツと鳴る固い靴音が着いて来た。
「ん、そこら辺適当に座って。ちょーっと待っててな?」
部屋の中央にある来客用の卓とソファを指差し、ヒラリと手を振る。
あんなに緊張してちゃ会話もままならない。
随分遠くから来ている筈だし、まずは一息いれさせよう。
台所でグルリ視線を巡らす。
飲料はどうやら珈琲しか無い様だった。
あらま。買い足すの忘れてたね、参ったな。あの子珈琲飲めるかなぁ?
ま、水よりはいいかと思い、先日タエちゃんが持って来てくれた大学芋と一緒に盆に載せた。
扉を開けるとまだ階段下、所在なげに立ったままの少年の後ろ姿が見えて、
嗚呼、なんつーか生真面目な子なんだなぁ、と思った。
「あれあれあれ、どうしたの。ほらまぁ座ってよ」
声をかけると彼が素早く視線を動かし振り向く。
…あ、また気配、消えてたのかな、俺。気を付けよう。
気配はあるものなんだ、普通の人間ってさ。
どうやら彼は少し考え事をしていたようで、急に現れた俺に警戒した様子がない事に密かに安堵する。
…変に勘ぐりすぎか。そんな自分が滑稽だと思い、些かの自嘲。
そのまま彼の横を通り、卓にカップやらをカチャカチャと並べた。
「あの、」
「あーそうだ。ライドウって珈琲は飲んだ事ある?」
「え、あ…いえ、無い。…と、思います」
矢張ないかぁ。初めてでそのままは飲めないかも知れない。
「そっか。そんじゃ砂糖と牛乳も持って来るわ。座ってな」
軽く肩を押し椅子に促すと、多少戸惑った気配がしたけれど大人しく座ってくれた。
腰を降ろした少年の横、ひらりと影が寄り添う。
「おぉ?それライドウの猫ちゃん?かぁーわいいねぇー!」
綺麗な黒猫。可愛いなぁー俺、猫好きなんだよ。
曹達水みたいな綺麗な色の眼が真直ぐに俺を見る。にゃぁん、と鳴く。
よしよし、お前にも飲み物をやろう。
お前もちょっと待っててな、そう猫に笑いかけてもう一度台所に向かった。
手鍋で軽く牛乳を温め、まずは猫の為に平たい皿へと注ぐ。
残りの牛乳を銀色の小さな器にいれ、もう一つの器にちゃんと砂糖が入っているのを確認してから扉を開けると、部屋の中には黒猫と会話するように声をかける少年の姿が見えた。
嗚呼あの呟きはこういう事だったのかと合点がいって、妙に微笑ましい気分になった。
「君にはこれねー」
猫ちゃんの前に平たい皿、少年の前には砂糖と牛乳の入った小さな器を置く。
さて、と彼の前の椅子に腰を降ろし、カップを手にとった。
「ま、とりあえず飲んで。どうぞー」
「あの、」
「ん。挨拶はそれ飲んでからね?此処まで遠かっただろ。一息ついてからユックリと聞くよ」
本当に生真面目なんだなぁ。まぁ、冷めないうちに。
促すと、彼はカップを手に持ち何やら思案げな顔をしている。
改めて見詰め、とても綺麗な顔をした少年だなと思う。
白磁の様な肌。伏せ気味な瞼を彩る睫毛は黒く長い。
その奥にある瞳も澄んだ光を称えた硝子玉のようで。
まるで良く出来た人形みたいだと思った。
いや、ま。俺も負けちゃいないと思うんだけれど!
…もう少し若かった頃はね。
うん、多分ね、負け…て、なかったんじゃないかなぁ。
そんな馬鹿げた事を考えて笑いが浮かぶ。それから、珈琲を飲み込んだ。
正面に座る彼もやっと珈琲に口をつける、と、その端正な顔、眉間に小さく皺が寄った。
…嗚呼やっぱりなぁ。俺も初めて飲んだ時はそんなだった。
懐かしい、という感情が。
自分の中にもまだそんな人間らしさが残っていたんだという事が。
どこかくすぐったくて、また頬が緩んだ。
「あー砂糖はそれ。牛乳を入れてもいいぞ。自分で調整してみな?」
二つ並べて置いた銀色の器を差すと、少年は無言で両方を少しづつ入れ、口をつける。
今度は眉間は動かなかった。
カップを卓に置くと、彼は背筋を伸ばし姿勢を正した。
「もー!そんな堅っ苦しくしないでいいよー疲れちゃうでしょ?」
それより甘味はどう?そういって皿を差出してみる。
もう少し、この少年を眺めて居たかった。
「大学芋も、初めてかな?これは苦く無いから食べてみな」
「大学、芋…ですか?」
「うんそう。おイモさん。ライドウの口にあうかは分かんないけど」
どうやらこっちも初めて食すようだ。どんな顔をするのかな。
苦くは無いから眉間はきっと大丈夫だろう。
黄金色の液体がかかった芋を一つ取り、口に運ぶ彼を見詰める。
小さく動く彼の口元、その口角がユックリと上がるのを眼にした。
「…これは、美味しいですね。とても、好きです」
ドキン。
少年から出た単語に心臓が一度、大きく鼓動を打った。
ちょっと待て。芋への告白に俺は関係ないって!
動揺する俺の内心とは対照的な程、落ちついた表情の彼はもう一つ掴むと口に運び、静かに咀嚼を続ける。
幾分柔らかくなった視線と上がった口角は微笑なんだろう。
…これは、参った。
何故か視線を外せなくなり、じっと彼の口元を見ていると不意に紅い舌が覗き、彼は唇を舐めた。
その光景に心臓が跳ね上がる。
ドキン。
ヤバイ。
何だ、コレ。ちょっとちょっと!俺ってば何考えてるの!
ひと回り以上も年下(と、カラスのお姉ちゃんが言っていた)の。しかも、男。
確かに綺麗だけれども、間違う事なく、男。
そんな少年に、これは。
顔に血が集まってきた感覚がする。
下に集まった気がするのは、きっと気のせい。
…気のせいだよ。馬鹿だな、俺。
心の中で激しく動揺していると、不意に彼が視線を上げた。
眼があうと少年は不思議そうに首を傾けた。
いやもう本当勘弁してそんな仕草も。
可愛い、なんて。
思っちゃったじゃないの。
あーいやいやいや落ち着け。気のせい。気のせいなんだから。
「あ、いや、うん。…気に入ったみたいで、良かったよ!」
忙しげに数回瞬きをして笑ってみせる。
まだ顔が赤い気がするので、適当な言葉を紡ぎ乍ら彼に皿を押し付けて誤魔化した。
咀嚼していた芋を飲み込んだらしい彼の喉の動きにまた心拍が跳ねる。
そんなこちらの心情に気付く風も無く、彼は両手を膝に頭を下げた。
「初めまして。十四代目葛葉ライドウ、ヤタガラスからの命を受けて参りました。本日より此処でお世話になります」
「うん、初めましてー。話は聞いてるよ。鳴海探偵社へようこそ、ライドウ」
「若輩者ゆえ御迷惑をおかけするとは思いますが、宜しくお願い致します」
嗚呼、もう、本当に。なんて、生真面目。
俺こそまだまだ若輩者だよ…不埒な思考しちまって、御免な。
少女の様に高くは無く、男という程低くも無い、澄んだ彼の声の音。
先程見えた柔らかな微笑。
嗚呼、もうどうしよう。
俺ちょっと、本気で、ヤバイかも。
顔を上げて俺を見る彼の真直ぐな瞳。言葉。
困っちゃうよな…駄目だぞ、俺。
彼は純粋なのだ。
きっと、兄へのような、父親へのような。
そんな感情なのだ。
…息子…っていう程の歳では無いと思うけれど。この際仕方がない。
きっと、可愛い弟、とか、息子、とか。
そう。そういった事なのだ。
己の思考に困り果て、無理矢理とも思える結論をつける。
彼の真摯な姿勢が気恥ずかしくて、とりあえず笑う事しか出来なかった。
「俺は鳴海。此処の所長をしている」
「鳴海、所長」
「あー、所長じゃなくて鳴海さん、でいいよ。仰々しいのは苦手なんだ」
そう、仰々しいのが苦手なだけなんだ。
所長なんて呼ばなくていい。
「…鳴海、さん」
「ん?なぁにーライドウちゃん」
「十四代目、葛葉ライドウ。 ……橘、慈照、と…申します」
驚いた。
彼の声に続き、横からにゃあん、と猫の声。
面はそのまま、軽く視線だけを横に注ぎ彼が言う。
「…これは僕の、猫では無く、お目付役のゴウトです」
「おやまぁ。偉い猫ちゃんなんだ?よろしくねーゴウト」
にゃぁん!
「『猫と呼ぶな』とゴウトが言っています、鳴海さん」
「あらー御免ねゴウト?ま、仲良くしよーね!俺、猫大好きなんだよなぁ」
内心の動揺を悟られない様に軽口を零す。
駄目だからな、俺。この緩む頬は猫が好きだから、なんだ。
…そう自分に言い聞かせて笑う。
猫が好きだから。そうなんだ、それだけ。
気恥ずかしくて、少し逸らしていた視線を戻すと、また真直ぐな彼の眼にぶつかった。
嗚呼、綺麗な瞳だ。
きっと彼には大した意図のない事だろう。
ただ純粋で、真直ぐで、正直なだけなんだ。
…でも俺は、違うから。
「……よろしくな、『ライドウ』」
ビル内を一通り案内して、そのまま一室に通すと、どうやら荷物整理を始めたようだった。
片付けが終わったなら夕餉ついでに外に出て、この街を彼に見せよう。彼が護る帝都を。
横に並んで歩けば視線は合わない。たまに少しだけ、顔を見よう。横顔でいい。
そして、共に歩めば。其の瞳と同じ景色が此の眼に映るだろう。それだけでいい。
事務所に戻り、窓際にある自分の椅子へ腰を降ろし、煙草に火をつけた。
紫煙を吸い込む。
ライドウ。
素直そうな、イイ子だな。
うん、護ろう。
大事にしよう。
だから、その為に。
飲み込むのだ。
己がこの感情を。
「慈照…かぁ…」
その名を口にすると、自身の中の感情がまた、体積を増した気がして。
彼を護ろうと思った。
俺の様な屑は駄目だ。
だから、呼ばない。呼べない。
眼を閉じて、紫煙と。
その感情を大きく吸い込んで、共に自分の奥深くへと。
静かに飲み下した。