天泣
わぁ、と。
教室の窓から空を見上げて八千穂が声を上げた。
「どうしたの?」
「あ!ホラ見て九ちゃん!雨やんだよ!良かったよね!」
「ああ本当だ。やんだね」
「うんうん!」
良かったぁと繰り返す八千穂と、良かったねと繰り返す九龍の声。
机に突っ伏していても、満面の笑みで喋る八千穂と、それに答える九龍の姿が見えるようだ。
昼休み、教室に広がる沢山の雑音の中でも、この耳はハッキリとアイツの声を拾い上げてしまう。…不愉快な声だ。それを消したかったから、八千穂に声をかけた。
「雨がやんだくらいで喜んで…おめでたい奴だな」
「えー!だって、今日は特別じゃない?」
「何がだよ」
どうして皆守クンはそうかなァと八千穂が呆れた声を出す。
その横で九龍が「今日は七夕だよ、甲ちゃん」と言った。
「…だから、何だよ」
何だじゃないよ!だって一年に一回しか会えない二人なんだよ?雨じゃ可哀想!何故だか八千穂は力説する。他人事…というか御伽話ごときに何を必死になっているんだろうか、コイツは。
「たかが七夕だろ…」
「なんで?ロマンティックじゃない!愛しあう二人の念願の逢瀬だよ」
「阿呆か…馬鹿なカップルの自業自得だろ」
天の川の西岸に住む織姫は機織の名手で、毎日美しい布を織り上げる。
父親である天帝は、娘の結婚相手として東岸に住む働き者の牛使い彦星を引き合わせ、二人は夫婦になるが、あまりにも夫婦仲が良すぎて仕事をしなくなってしまった。
怒った天帝は天の川を隔てて二人を離れ離れにしてしまい。
悲しみに明け暮れる二人を不憫に思った天帝は、仕事に励むことを条件として七夕の夜に限って二人が再会することを許した。…こうして天帝の命を受けたカササギの翼に乗って天の川を渡り、二人は年に一度の縫瀬をするようになる。
そんな、馬鹿な御伽話。
「でもさ、お互いそれだけ愛しあってるんだよ〜?応援してあげたいじゃない!」
九ちゃんもそう思うよね?やっぱりデートだし晴れてる方が楽しそう!と八千穂が明るい声で九龍に話し掛ける。九龍は答えず、面白そうに八千穂と俺を見比べただけだった。
「雨がやんだって、曇りは曇りだろうが。星なんか見えねぇよ」
言うと、八千穂は「でも雨じゃないから会えるんだよ」と答えた。
「阿呆か…元々いくら地上が雨だろうが雲の上は降ってないだろ」
「うーん…?」
「雨だろうが晴れだろうが曇りだろうが雲の上に星はある。ただ見えないだけだ」
「あ!そういえばさ、曇りは二人が逢瀬を下から人に見られないように。二人っきりになれるようにする配慮なんだって話があるよね」
「それなら尚更雨の方が都合がいいんじゃないのか?」
「え、でも雨だと川が溢れて渡れないから会えないんじゃないっけ?」
あれぇどうだっけ?どうなんだろう?眉間に皺を寄せ、一人呟き乍ら八千穂は考え込んでしまう。暫くして、雨でも何でも二人のデートが成功ならいい、という間抜けな結論の言葉と共に、ニコニコ笑って顔を上げた。
「甲ちゃんは、雨でも曇りでも晴れでも、二人は幸せな逢瀬をしてるって思うんだ?」
今まで黙っていた九龍が、笑った顔のまま俺に問いかける。
「さぁな…曇りはどうだか知らないが、雨の時は駄目じゃないのか」
「なんでそうなるの!?」
雲の上は降ってないって言ったの皆守クンじゃない!なんでそうなるかなーと八千穂が大袈裟な声を上げる。九龍は面白そうな表情を浮かべて、なんでそう思うの?と聞いた。
「罰だから、だろうよ」
二人が会う為には条件がある。一年、ただ必死に耐えなくてはならない。
途中少しでもサボってしまった年は雨になるんじゃないのか。そう思うから、と答えた。
俺の言葉に九龍が笑う。
「じゃあ今日みたいな天気は、織姫が条件分の布をギリギリ仕上げたのかな。間に合ったんだね」
「頑張ったんだねー!愛しちゃってるんだねぇ!」八千穂も言葉を重ねて笑う。
その後、九龍はふと気付いた顔になり「ああ、そうか」
「雨の事、『空が泣く』って言うよね」
会えなくて、流した涙が雨になるのかな、と呟いた。
甲ちゃんが織姫だったら、きっと毎年彦星豪雨の危機だ。声に出して、また笑って。
「織姫の条件分も彦星が頑張って埋め合わせするんだよ、愛する人の為に」
そう、柔らかい声で続けるから。
「そのうち、彦星だって嫌になるさ」
そう言って、笑ってやった。
人は弱いから。
ずっと一人で走り続けるなんて、きっと無理だ。
どれだけ焦がれて居ても、焦がれているからこそ、辛くなる。
そんな思いから逃げ出して。
そのうち。
そんな感情だって、薄れて。
「でも俺は、雨も曇りも晴れも、二人の逢瀬は成功してると思うよ」
九龍が笑う。
「会えなくて流す涙じゃなくて、会えて嬉しくて流す涙なんだと思うんだ」
人は弱いから。
縋れる約束があるのに走るのを諦めるなんて出来ないよ、と。
馬鹿みたいに焦がれて、どれだけ辛くて、逃げ出したくても。
絶対に捨てられない、なくせない感情があるんだよ。
そう言って、九龍が笑う。
逃げられたら、楽なのかも知れないのにね。
そう呟いて、静かに笑って。
真直ぐに俺を見る瞳と。酷く耳に残る、優しくて、不愉快な、声。
今、コイツの声を掻き消してくれる雨音が聞こえればいいのに。
そう思い、窓に広がる空を見上げた。